[傾聴]共感的理解のまなざし


函館のずれることなく気持ちを聴く専門サロン【聴き手サロンあいりす】のブログにご訪問いただきありがとうございます。



前回は共感の発信的側面(技術)がテーマになりましたので、今回は受信的側面(まなざし)に焦点を当てていきたいと思います。


ちなみに、これから書く内容は、あくまでもカウンセリング関係における共感のまなざし又は態度の話であるということをどうか心に留めつつお読みください。





さて、カウンセラーの共感のあり方をとらえようとする時、実は共感だけをとり出して考えるということはできません。


カウンセラーに求められる態度である
「自己一致」
「無条件の肯定的関心」
「共感的理解」

これら3条件を同時に満たしたとき、セラピーにおいて変容が起こるといわれているからです。



自己一致と無条件の肯定的関心については専門用語になりますので、すこし説明しますね。


自己一致とは純粋性ともよばれ、カウンセラー自身が偽りなくそこに存在することをいいます。自分に対しても目の前の人(クライエント)に対しても常に嘘のない状態にある、というような意味になります。




無条件の肯定的関心は「条件つきの肯定的関心」を否定したもの、と考えると分かりやすいです。


カウンセラーがクライエントに条件つきの肯定的関心をもつということは、カウンセラーの視点や価値観に合致する時だけ肯定的な関心をもつということになります。


無条件の肯定的関心はその否定となるので、カウンセラーの視点や価値観に合致する時だけではなく、合致しない時もまた肯定的関心をもつまなざしや態度になります。



自己一致や無条件の肯定的関心について、何となく伝わりましたでしょうか…





それではテーマであるカウンセラーの共感的理解について掘り下げていきましょう。


この先は、日常的に使われる共感という言葉については単に共感、カウンセリング関係における共感を共感的理解と書いていきます。(引用文のみ例外です)




さて、みなさんがカウンセラーに重ねる共感のイメージとはどのようなものでしょう?

あたたかく、包みこむような、わかってくれる、いつも味方でいてくれる etc


だとするなら、前回の技術のみを切り取った記事には、少なからずショックを受けた方がいるかもしれません…



でも、今回の記事を通して「血の通ったまなざし」と表現した態度とはどういう事か、クライエントを共感的に理解しようとするその瞬間瞬間に、カウンセラーの内部でどんなプロセスが進行しているのかを知ればきっと安心されると思います。




ずばり言いますと、カウンセラーの共感的理解はとても感情移入的なものです。


受容と共感を中核におくカウンセリング(来談者中心療法とよばれるものです)の創始者であるカール・ロジャーズは共感的理解(empathic understanding)をこのように説明しています。


クライエントの私的世界を、それが自分自身の世界であるかのように感じとり、しかもそれが「あたかも・・・のような」という性質を決して忘れない――これが共感なのであって、これこそセラピーの本質的なものであると思われる。クライエントの怒り・恐れ・混乱を、あたかも自分自身のものであるかのように感じ、しかもその中に自分自身の怒り・恐れ・混乱を捲き込ませていないということが私たちが述べようとしている条件なのである

「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」1957年


“クライエントの私的世界を、それが自分自身の世界であるかのように感じとり”とあるように、ロジャーズはとても感情移入的な理解の重要性を最初に伝えています。


感情移入的と表現されるとおり、カウンセラーはクライエントの心の内や外で起こっていることに注意深く耳を傾け、クライエントの体験している世界を繊細に想像し、クライエントが感じるようにそれを味わおうとします。私もやはり自動的にそうなってしまいます。


それであってもなお、カウンセラーがクライエントの世界を完璧に理解することは不可能なのです。


それはなぜか?


人には独自にもつ視点や価値観があるからです。このような、ものごとへの見方・とらえ方・感じ方は専門用語で内的照合枠と呼ばれています。内的照合枠とはその方の人生の全経験からできている織物のようなものだともいえるでしょう。


カウンセラーもクライエントと同じように自分自身の内的照合枠をもっているのでクライエントの語りを聴いていると様々な思いがやってきます。自分だったらこう感じるなとか、こうとらえるなとか。



カウンセラーの態度として「共感的理解」「自己一致」「無条件の肯定的関心」を同時に満たすことが大切と冒頭でふれましたが


自己一致は自分に嘘がないあり方ですから、カウンセラーが自分の内的照合枠にてらして「それは気のせいですよ」「お相手は~の意図でそうしたんじゃないでしょうか」と伝えたら何が起こるでしょうか。


心の充電率が高い場合はそうともいえませんが、その方がもう一歩たりとも進めないほど疲弊していたとしたら、私の気持ちはわかってもらえないと相談の場を離れていくこともあるでしょう。

カウンセラーが自分の内的照合枠に対して自己一致を求めるなら「無条件の肯定的関心」とは大きくかけ離れてしまうことになるのです。





ロジャーズは、こうしたカウンセラーの内的照合枠の問題について重要なあり方をつけ加えました。それが「あたかも・・・のような」性質を忘れない、というあり方です。


“クライエントの怒り・恐れ・混乱をあたかも自分自身のものであるかのように感じ、しかもその中に自分自身の怒り・恐れ・混乱をそこに捲き込ませていない”という部分がそれにあたります。





実はこの「あたかも」によって、カウンセラーは自己一致しながら無条件の肯定的関心をもつことが可能になります。「あたかも」をセッションの中で意識するとき、私の心の風景を描くならこのような感じになるでしょうか、、、



私は私の内的照合枠をいったん脇に置きます。それは私の視点や価値観そして審判的態度(ジャッジ)など全てをふろしきに包んで身体の外に置いておくような感じです。


その空になった身体に話し手さんの内的照合枠を設置して、その方がながめるように世界を眺め、感じ、味わうのです。(もちろん、他者である私がその方の人生経験の織物をそう簡単に理解できるはずもありません。だからこそ、その方の内的照合枠にできる限り近づくために全身全霊で聴いていきます)






あたかもという性質を忘れないとは、つまり自他を同一視しないことを意味します。


限りなく感情移入的でありながら、自他に境界があることで「無条件の肯定的関心」がかなう。自分の内的照合枠とは切り離されているため、私の思いや感じ方と違ったとしてもジャッジすることなく、相手の思いや感じ方はそうなのだと尊重することができるわけです。そして境界があるために私の思いや感じ方も同時に尊重されます。


逆をいえば、自分にも相手にも嘘のない「自己一致」の状態は境界なしには成り立たないのです。




このように「共感的理解」「無条件の肯定的関心」「自己一致」というカウンセラー側に必要な3条件を同時に成り立たせるために境界は欠くことができない要素です。


この境界の考え方こそ、共感的理解と日常の共感との大きな違いであり、また共感的理解の最大の特徴ともいえるでしょう。






世の中には脳神経細胞のひとつミラーニューロン活性が高く非常に共感能力に長けた方が一定数おられます。


前回の記事は、共感しすぎてつらくなってしまうという方にセッションでお会いすることが少なくないため、カウンセラーの訊く技術が役に立つかもしれないと思って書いたものでした。



このようにロジャーズの理論をひもとけば、カウンセリングにおける境界が冷徹なものではなく、むしろクライエントの心に限りなく近づくためのセラピー上の要素であることがみえてくるものの


「血の通ったまなざし」という表現だけでは十分とはいえず、また様々な方が読まれるブログという媒体でどのように届くのか、ことにカウンセリングの核ともいえる共感というテーマを扱うならば格別の配慮が必要だったと思っています。


複雑な気持ちにさせてしまった方へ深くお詫び申しあげます。






カウンセラーが共感的理解のプロセスで何をどのように体験しているのか、そのあり方やまなざしがこの記事から少しでも伝われば幸いです。



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